身辺記

平野悠の奮闘介護録第三部(No25~32)

ロック文化を広めた伝説の人物。平野悠の奮闘介護録

 
 
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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その25」2025/5/18
80歳の階段を上がる。
もう私の周りに残された友人たちはどんどん死んでゆき、あるいはその多くは病魔に襲われたりしている。
「歳をとるってこう言うことか」と確認させられる。これは想像以上に辛い。
やはり80歳以上生きるのは、「長生きしすぎ」なのかもしれないと思ったりする。だが私は基本健康体だ。
私は何か一人取り残された気になって、更には難病に犯された年下の妻を見るたびにいつも私の心を悲しくさせる。
果てしない彼女のために、私は家を離れず「介護」らしきをする。
何か笑顔や屈託のないおしゃべりもなく、毎日が過ぎてゆくのを唖然として眺めている。
私の介護と言っても大したことをするわけでもない。
しかし妻は昨日できたことが今日できないなど、病状は進行しあまり調子は良くなっていないようなのが心配だ。彼女は基本よく転んだりしてよく皿やコップを割ったりするが身の回りの自分のことは出来ている。
私の任務は病院やリハビリセンターの送り迎え、散歩、買い物、食事は基本私が作りあとは先生や介護士とのやりとり、そんな彼女を見守る毎日だ。
歩行用の器具(室内と外出)も揃えた。
「週2〜3回はリハビリを頑張ってやって、とにかく今は一人で歩けるようになろう。頑張ろう」と私は彼女を励ます。毎日が元気であって欲しいと思うが、妻の暗い悲しみが春の風に乗って落ちてくる。
夜は孤独な一人になる。早春の夜風がベランダを通り抜け頬を撫でる。
相変わらず毎晩酒は飲む。酔いが覚めて少し寂しくなる。
私は物音の途絶えた深い静寂の中で何かを見続ける。
深夜の住宅街に出る。小石を蹴飛ばす。緑の歩道の中を歩く。続く夜道。 
どうして私は自殺しないのだろう。
この世は生きるにはとても魅力的ではない。
日々生きゆく姿は日々死にゆく姿、活き活きと死にゆくこと。
私は今、老いてしまって若かった日を思い出している。
孤独で一人ぼっちで、だから誰かに電話しようと思ったりする。でも電話をかけるところがない悲しさ。
もうすぐ死と言うものが私にもやってきそうな気がする。
後戻りできないゴールに向かってただ一人歩く

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527  · 
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その26」2025/5/27
ストレス?・・・・・・
三日前、土曜日の朝早く妻が私の部屋をノックする。
「どうした」と飛び起きる私。
「玄関先で転んで右手が痺れて動けない。痛い」と言う。
「またか?なんで一人で外に出た!とにかく痛み止めの薬があるからそれを飲んで、近くの整形外科を探して、医者に行くしかない」
焦って整形外科病院を探し、車で医者に。
医者はレントゲンを撮り「肩の脱臼、と手のしびれは「p」でしょう」と言う。
これで妻はほとんど一人歩けない状態から右手もつかえなくなった。
今年に入って病院に飛び込まなければならない怪我にあったのは5回目だ。2回は救急車で病院に運ばれた。
<友人との会話>
「このところなんか、大した介護をやってないのに疲れ切っているんだよな」
「そうか疲れるか。介護歴10年の俺から言わせると、それはストレスなんだよ。これは辛い。介護やった人以外わからないよ」
友人は私と同じ歳の男でカミさん死なれ、何年も自分の母の介護をやってきた男だ。
「そうかこの疲労はストレスから来るんだ。毎日心配は尽きないし、妻のためにできる限りのことをしようと心がけている。疲れ切っているんだな。」
「介護らしきものを初めてどのくらいたつ?」
「なんだかんだ妻が難病「p」とわかってから1年近くか」
「本格的な介護はこれから始まると言っていいかも。準備はできているか」
「勘弁してほしい。俺はこれ以上のことは無理だ」
「そう言うことなら介護の施設を探すしかない。料金の安いところはほとんどいっぱいだが、お金さえ払えば入居できる施設はたくさんあるはずだ。
「それ、カミさんが承諾するかな、それが問題だ」
私は今。身内というか妻の問題を赤裸々に描き続けている。
「この介護の記事、書きすぎではないか」と身内からも言われたりする。
多分妻も読んでいるに違いないと思うがしかし妻は一切そのことに触れない。無視だ。
実はこれらの日々の介護録を書くことは結構勇気がいたりする。
「こんなことを書いたら妻は悲しむに違いない」と思ったりするが。
だが自称作家を自認する私は、書き続けるのが義務のような気がしているのだ。この記事は二木敬考さんがやっている「アクション介護、地域」というサイトにも転載されている。決っして世間に恥を晒すつもりはないのだが。
果てしない女のために。この春のために、ワタシは生き続けるのか。
春雨がしめやかに降り出している。もう夏が来る。
写真、
う〜ん、半年前は黒々としていた髪の毛がどんどん白くなってゆく。黒髪から真っ白になるのは一瞬だそうだ。黒髪、唯一の自慢だったのに(笑)。

 
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6月1  · 

「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その27」2025/6/1
なんだ〜この果てしない喪失感は。。。
難病「p」の妻がまた転んで肩を脱臼した。
もう一日数回は転ぶようになってしまっている。
今は歩くことも、手も使えない状態だ。
慌てて彼女の姉さんと91歳になる母がやってきた。
二人とも妻の状態を見て「ここまで悪いとは?」と絶句してしまっていた。
「悠さん、もう一人での介護は無理だと思うし限界にちかい。4〜5日実家で預かるから・・・。それから入院先を決めよう」と姉さんは言ってくれた。
「そうか、それは助かる。私はストレスが溜まってこれ以上の介護はできないと思う。妻は嫌だと言っているが、なんとか「p」の専門施設に入るように説得してほしい」と私は姉さんに懇願した。
それから姉さんが色々交渉してくれた。妻とケアマネとの交渉がはじまった。
「彼女なんとか施設に入院することを納得してくれた。とりあえずショートステイをして、それから区とか担当医師と相談して「p」の専門施設に入るようにまとめる」と言う。
妻と姉さんを乗せ二子玉川の「そよかぜ」という介護つきショートステイの施設に妻を滞在させることにした。
帰りの自動車の中で,,,。
「悠さんよく頑張ってくれたね。いやはやこれほどまで悪化しているとは思わなかった。実家に帰った時も私たち家族は彼女が良く転ぶので、気が気でなかった」
「もうこれだけ酷いと介護施設から戻ってこれないかもしれないね。」ポツンと姉さんは帰り道の車の中で言った。
私は運転しながらその重たい一言に何も言えなかった。
環八の砧緑地を横目で見ながら夕暮れの薄明かりに車の灯入れて前の赤いテールランプ追いながら車は走った。
「もう妻は施設から戻って来れないかもしれない・・・」という言葉に私は大きな衝撃を受けた。
あれだけ仲が悪かった私たち夫婦。この30数年ほとんど別居して暮らしていた。その私が妻の介護をするとは・・・逃げられないと思った。
昨夜は何か呆然としてただただベランダから深夜の神社を眺めるばかりだった。僕たちが昔愛した優しさも楽しさもそして心もみんないつの間にかどこかに行ってしまった」と思った。
何か知らない涙が止まらずに嗚咽してしまっていた。どこからか寂しさが首を出し何か知らない悲しみに暮れた。
きっと妻は私たちから捨てられた、見放されたと思っているのだろうか?
「えっ、これはなんだ。俺は長らく彼女を愛していない。長いこと離婚を迫っていたのに、このどうしょうもない喪失感はどこからくるのか?」
そして今日、私は妻に電話を入れた。
「あのね、俺は君がリハビリを終えてきっとまた戻ってくるに違いないと思っている。君の部屋も整備しておくから。その部屋で一緒に住もうと思っているんだ。リハビリ辛いだろうけど家に帰るために頑張ってほしい」
とそこまでいうのが精一杯だった。
「俺はきっと優しい男なんだ」と苦笑した。

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6月6 
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その28」2025/6/6
「介護経験者は語る...」
町田に住む藤野順子さんよりメールがありました。かって介護を経験した人や、これから介護が始まる方は是非読むといいと思います。
先日のFacebookへの投稿を拝見し
コメントにもちょっとだけ書いたのですが
少しでもご参考になればと、ここに書かせて頂きました。
介護の事は、人それぞれなので、控えておりましたが
なんとなく自分の母の介護と似ている部分があって・・・
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母は、大腸がん手術し回復をしたのですが...その後
長年患っていた膝の調子が悪くなり、
2年後に人工関節の手術をしたのですが
調子が、良かったり悪かったり。
足が前に出しずらくなって、転倒を頻繁におこすようになりました。
「自分では大丈夫と思っていても、何かする時は
必ずお父さんに声かけてからやってね」と、
母には話していたのですが
母は、自分の事は自分でという考えがあり
1度目は、換気扇の掃除をと食卓椅子の上に上り、そのまま床に転倒
2度目は、郵便物を取りに玄関から門まで行く途中の階段でつまずき転倒
3度目は、洗濯ものを干す時ベランダから庭への階段で転倒
その他数えきれないほど
その度に、病院へ連れて行きCTだ何だのと検査
身体は、あざだらけでした。
それすら娘の私に隠してました。
3度目は、酷かったのでそのまま入院でしたが
まぁ入院中も、ひとりで夜中トイレへ行こうとして転倒し
病院から、ベッドの下にセンサーを置かせてもらう旨の承諾書が届いたり。
なんだかんだと、退院しては転倒の繰り返しで
杖を買ってあげたけれど使わず、病院からのアドバイスで歩行車を
室内と外用とレンタルしたけれど使わない。
デイサービスも、行きたくないと頑なに拒否でした。
そんな中、自宅でならリハビリすると言うので
父と話し、在宅でリハビリをお願いしてもらい、リハビリ後に
お話しをしてもらったり。(週2)
転倒すると危ないから、家事は父がすると言うも
掃除と洗濯だけは、譲れないと母。
食事の支度だけ、頑張って父がやっていました。
しかし、だんだん父の様子がおかしくなりまして
愚痴などこぼすような父ではなかったのですが
母への不満を私に口にするようになりました。
夜も、少しの物音で階下の母が、また転倒したんじゃないかと
びくっ!としてなかなかゆっくり眠れないと言いました。
何度言っても母は、自分で動き回ろうとするので、
父は、2階の部屋から1階の母の部屋の隣の部屋で寝る事に。
睡眠もとれず、日中も好きなゴルフにも行けずの日々で
外出もままならなくなり
だんだん父の方がストレスで、滅入ってしまっているのが目に見え
これでは、健康な父までおかしくなってしまうと思い
母を説得しました。
「お父さんが倒れたらどうする?お父さんが休む時間も作ってあげようよ。行きたくないかもしれないけれど、行くと楽しいかもよ・・・」と。
当然拒否をし、行かないと。
困りました・・・
母は、幸い自宅に週2来て下さっていた理学療法士のお姉さんの事がとても気に入っていたので
その方に相談し、なんとかデイサービスに行くように話してもらえないかとお願いしました。
そしてその方がいる施設ならばと
まずは、デイサービスのお試しみたいなものに
行ってもらいました。
最初は、誰とも話さない、楽しくないと言ってましたが
次第に慣れて来て、デイサービスは行くようになりました。
(元々友達も少なく、社交的ではない母にとっては、デイサービスは苦痛だったと思います)
そこから今度は、1泊2日で、施設のショートステイに行ってみたらと話ました。
これは、絶対に嫌だと言い行こうとしませんでした。
家がいいと、涙を流しました。
ですが、父が法事で遠方へ行く事になり、母ひとり家には
おけないと言う話をし
ようやく、1日だけならと。
用事がある毎に、ショートステイを何度か繰り返し
だんだんと自分が家でできる事が少なくなっていくこと、
父に負担を掛けてしまっていることがわかったのか
施設に入ると言いだしました。(理学療法士さんの勧めもあり)
実家近くの施設なので、父も行ける場所。
ここへ辿り着くまで、長かったのですが結果良かったと思ってます。
勿論、自宅で夫婦仲良く過ごす事がベストかもしれません。
ですが、自宅でできる事には限界があると思ってます。
実家の至るところに手摺、浴室のリフォーム、
バリアフリーへの改修など
それでも、やっぱり限界はありました。
施設へ入ってもらう事を、
ひとり可哀想だとか言う親族も居ました。
両親共がいいのかとも思いましたが、
それは、両親が一番心地いい環境をお互いで見出した結果なのだからと思いました。
こういった介護の現実を目の当たりにして思う事は、
介護は、健康な人間までも不健康になってしまうと思います。
平野さんから笑顔が消えるのがとても淋しいです。
いつも遊び心のある平野さんの笑顔のファンが沢山だと思います。
私もそのひとりなので、どうかストレスを溜め込まないで欲しいです。
参考にはならないかと思いますが
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6月7 
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その29」2025/6/7
「介護経験者は語る...その2」
またまた暗いメール が。もうそんなの読みたくないよと思いながら読んでしまいます。
突然、失礼いたします
僕も藤野さんと同じ思いです
僕は両親の介護を自宅で1年
父はレビー小体型認知症で
「P症候群」もあり要介護5
母は嗜銀顆粒性認知症で要介護4
僕は50歳で仕事を辞め
介護に専念しました
出来ると思ってたし
やらねばと思ってましたが
甘かったと思ってます
父は認知症でしたがマダラボケで
時たま幻覚を見たり
現実ではない事を口走りましたが
日常的には会話も出来たし
お風呂も排泄も少しの介助で
出来てました
認知症の度合いは母の方が酷く
家の中はひっちゃかめっちゃかで
夫婦なのに手をあげたり
手当たりしだい物を投げたり
デイサービスも利用しましたが
安定して通える事はなかったです
言った事が伝わらない
母は同じ間違いを繰り返す
火災になりかねない事をするので
毎度、ガス栓を止めにいく
家の前を歩く人たちに声をかけ
『助けて』と叫ぶ
その度に母を怒鳴ってる自分に気づき、自己嫌悪に陥る毎日でした
優しかった母
いつだって穏やかだった母に
怒鳴ってる自分が本当に嫌で
心が潰れそうな毎日でした
父との喧嘩も酷くなり
母を入院させようとなりました
良くない事とは思いましたが
自宅で介護を続けるのは限界でした
母に適合する薬を見つけるまで
ほんの少しの間だけ
すぐに退院出来るからと
自分に都合よく言い聞かせ
病院の説明を聞きました
『ケガ防止の為に身体拘束も
やむをえません』
寝る時、ベッドで拘束
日中は車椅子に拘束
『お母さまの安全の為ですから』
僕はサインしました
自分が救われたくせに
母の為だと言い聞かせて
2ヶ月
面会できないまま
退院の時
母は変わり果ててました
暴れる事もなく
穏やかでした
薬漬けで感情を失くしたのでしょう
言葉を発する事はなく
無表情な人形のようでした
声をかけても
返事が返ってくる事はありません
自分を責めました
後悔しました
周りは仕方がないと
これで良かったんだと
それでも僕には後悔しかありませんでした
母を壊したと
母が退院したころ
父は糖尿病と腎臓病で
入退院を繰り返していました
お世話になっていた
ケアマネさん
病院のソーシャルワーカーさん
皆さんの勧めで両親を同じ施設へ
入所させる事になりました
もう自宅で2人の面倒は無理だと
僕だけでなく周りも気づいてました
施設の見学は3ヶ所
詳しく話しを聞き
自立を促す事に重点を置いた
施設に決めました
寝たきりが歩けるようになる
車椅子が歩行器へ
歩行器が杖へ
排泄を自力でいける
食事が自分で出来る
これらを目指してるとの事でした
2人は入所後
認知症の症状がおさまり
薬も脱薬減薬出来て
落ち着いて暮らしていました
父はほとんど車椅子でしたが
歩行訓練も出来るようになり
食事も自分で
尿カテーテルがはずれて
自分でトイレに行けるようになりました
残念ながら昨年9月に永眠いたしましたが、その最後は充実したものだったと思います
母は健在ですが
もう誰の事もわかりません
それでも話しかければ
笑顔を見せてくれます
出来ない事も増えましたが
手厚い介護で穏やかに暮らしてます
たった1年の介護経験でしたが
『出来る』『やらなきゃ』で
出来るものではないと知りました
時には助けを借りる事も大切
介護はする方もされる方も
心への負担が大きいです
変わってしまった両親より
変わっていく自分が許せない時もあります
僕から言えることは
助けを求める事は
逃げる事ではないと言う事
見捨てる事ではないと言う事
助けを得ながら
優しくいられることの方が
はるかに良いと言う事です
決してご自身を責めないで下さい
 
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6月11 
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その30」2025/6/11
衝撃は走る〜80歳にしてこの深い悲しみは何処から来るのだろうか?
雨の季節になって、我が家の自慢の紫陽花が開花する。
あ〜あ、昔のことをよく思い出す。春、紫陽花の花の咲く頃20代の君は青いワンピースで私の前に立ち塞がり身震いするほど綺麗だった。
私は一路妻が待つ有料介護ホームに向かう。
京王多摩センターの介護施設のあまり感じの良くない医者が無表情に言う。
「奥さんはどうもパーキンソン症候群の一つ「多系統萎縮症」なのではないか。奥さんは若いし進行が早い。難しい病気だ」
「そうですか、順天堂の医者が普通のパーキンソン病でここまで転ぶことが考えられない、注意不足かそれとも・・・。」と言っていました。
「とにかく今は歩ける状態にしなければ」と医者は言う。
「そうですか、確かにこの半年間で、散歩とかそれなりに頑張ってリハビリはしてきたんですが。症状はどんどん悪くなっているようですか」
「要介護度一から三になります。ここでは2ヶ月以上預かれません。今はトイレにゆくのも介護士が必要です。勝手に歩いて怪我をされたら施設の責任になります。言うことを聞かないとベットに縛りつけることになります。承諾書にサインをください。」
この施設、居住者が怪我をしても訴えられたりしないように、何枚もの承諾書にサインを求めてくる。
私は「一体あとどのくらい生きられますか」と聞きたかったがどうしても聞けなかった。
私は帰りの電車の中で焦って「多系統萎縮症」をネットで調べる。相当やばい病気で、あとどのくらい生きられるのかを考えて戦慄してしまった・・・。
普通パーキンソン病はあと10〜20年は生きられるというのに。彼女の場合、相当短いのかも知れないと思った。
それを記事を読んでから、私の意識はまさに宙に舞った。気がついたら駅から反対の橋本方面の電車に乗っていた。
どうやって家まで帰れたのかわからなくなった。
なんてことだ。現在妻の病院でのフォローのほとんどは彼女の姉さんがやってくれていて、姉さんが住む実家にも近い。私は助かって安堵し解放されたはずなのに、消耗し切っていた。
私はこの1年数ヶ月、介護のため妻だけを見てきたような気がする。ほとんど都会にも出ない。でも今は力が、気力が出ない。
この私の介護は何年も続くと思っていた。
妻が介護施設に入ってくれて私は救われたのだろうか
今こそ元気になれるような言葉が欲しい。
この歳になってこんなになるとは思わなかった。
しかし一人でいると深夜妄想が始まる。長い夜が始まる。
「期待は必ず失望へと変わる。そして重なった失望はやがて絶望に至る」(森達也)
写真、転んで 頭から落ちてもいいような帽子を被る。

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6月20
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その31」2025/6/20
「お前は完全鬱病の世界に入っている・・・」
長らくの友が「お〜い平野、今からお前の家に行ってすき焼きを作る。今スーパーにいって買い物をする」
「すき焼きか?いいな、酒を用意して待っているよ」と私は答える。
やつは私と同じ歳で、カミさんに先立たれ一人生活をしている。
「毎日忙しくて時間が少ない。やることがたくさんある。足腰は悪いが元気で毎日楽しくてしょうがない」と言い切る。
「毎日が楽しくて仕方がない。それって何よ。俺はカミさんが施設に入ってからすることがなくて困っている。毎日下手をしたら12時過ぎまで寝ている。目が悪く本もあまり読めない、運動は週2回のテニススクール。酒は毎日飲むけど食欲もあまりない。新聞のテレビもほとんど見ない。外に出る気もあまりしない。政治も興味がない」
「奥さんの見舞いには行かないのか」
「あまり行っていない。遠いいし」
「ダメだよ毎日行かなければ」
「ところで、毎日が忙しくてってと言うが後期高齢者のお前がなぜ忙しいのか?」
「恋人も居るし、東京都や杉並区でやる、演奏会とか朗読会とか合唱、映画とか、都内のワーキングも参加している。他の地域でやるイベントにも参加する」
「おっと、爺さん婆さんが隊列組んで花見に行くとかいちごつみとか、参加しているんだ。おりゃ〜嫌だね。カッコ悪い」
そんなことを言いながらダラダラと酒を酌み交わす。
「婆さんの恋人作ったのか、それは羨ましい。でもそう言うところに平気で行けるお前が羨ましい」
夜遅く奴から電話があった。
「平野、とにかくネットで「鬱の症状」を見ろ。お前の言っていることはほとんど「鬱病」に当てはまるんだよ。それもわかっていないのか」
「カミさんがいなくなったこの家で、一人ポツンと生きている。子供達から電話の一つもない。カミさんがもう戻ってこれないかもしれないと思うとなんかその喪失感は冥府というか深淵なんだな。自殺願望も相変わらずあったりする。」
私はひっそり深夜の緑の歩道を歩いている。
小径は森林の影に隠れ人一人の影もない。街から林へと歩く。
家々は寝静まってかき根越しのあじさが甘く匂う。
私は月光の顔に浴びて微笑した。
私は孤独な心で夜更かしをする。
雨はささやきながら昔話を思い起こさせる。
君はもう眠るが良い。雨はそこにいる。
うううう、わたしゃ鬱か」(苦笑)
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6月26
風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その32」2025/6/26
〜そして妻は有料介護施設に・・・(最終回かも)
 
1年数ヶ月の私の妻への「介護j」は一段落した。ちょっと絶望的だが勿論彼女は頑張ってリハビリしてまた自宅に戻ってくるかもしれないが・・・。
今は彼女の姉さんが病院でのフォローのほとんどやってくれていて私がすることはほとんどない。
「しっかりリハビリをして、出来るだけ早く自宅に復帰できるように頑張ってください。君の部屋はちゃんと用意しておきます」と私は毎日のように電話で叱咤激励する。
「毎日病院に通え」と友人は言う。
でもさ、一番彼女が辛いだろうけど、見舞いに行ってもちっともかわゆくないんだよな。疲れるだけで、病院のあまりにも暗い雰囲気、病人の荒んだ言葉と表情はそこにいるだけで悲しくなる。
妻は自分のことはほとんど話さないし、私に感謝の擦り寄るわけでもない。何も要求しない。ほとんど笑顔に出会えない。とても私が訪問するのを待ち望んではいないと思ったりする。
となると私はただただ「妻が可哀想」としか思えなくなってくる。
もう私が彼女にできることはほとんどないと思ったりする。
彼女は30数年間、世田谷の私の実家に住み着いていた。問題は彼女の30数年間の歴史が詰まった持ち物をどう処分するかだ。
彼女の姉さんが大量にある衣類とか写真とかを処分しにやってきた。
妻は「これ捨てないで」か連発する。
「おっと!彼女は自宅に戻れると信じて切いるのだ」
ちなみに、要介護3のショートステイの料金は1日16000円程度。本格的な介護施設は月28万、なんだかんだ入れると月40万(トレーニングとか)近くになるかもしれない。
これでは誰もが入れる施設とは言い難い。
私は今「鬱症状」からの脱出に懸命になっている。
これから私の最後の夢の実現(シェアーハウスロフト」の構築が待っているのだ。鬱になっている余裕はない。
うまくいけば今年中にオープンできるかもしれない。
そこにはバーがあり音楽ラウンジ、図書室、面白く才能ある人たちが住んでいて、私はその住人たちと何かを起こせればいいと思ったりする。勿論配信とか。素敵な住人たちに私の体を預けたい。
そう不詳80歳。生きる時間が黄色のように光るはずだ。
六月の夕、雨上がりの夕日の光が美しく流れてゆく。なんという美しさだろうか・・・。
郊外の名もない駅の商店街を歩いている。小さな葬式にあった。
私は沈んだ面持ちで淋しい目をして黒服で出入りする人たちと「御霊燈」の薄い提灯を見ている。
私はこの寂しい小さな葬式に愛を感じた。

 
※平野悠さんが、奥さんを介護付き有料老人ホームに入所させるメドがついたことで、この奮闘記は一応、終了する。
6月末に、世話人会の二木啓孝が平野さんに会った時は「鬱というより、心にぽっかり穴が空いた感じだ」「期せずして介護をした1年半、日常生活はカミさんを軸に回っていたからな」「さて、これから何をしていくか、音楽も文学も今は興味が持てないしなぁ……」
平野さん81歳。いつもの年齢を感じさせない快活さが戻るまで、少し時間がかかるようだ。
 

平野悠の奮闘介護録第二部(No18~24)

ロック文化を広めた伝説の人物。平野悠の奮闘介護録

 
 
317   
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その18」
結婚契約40数年、その大半私は何度も別居をしていたが、その妻が難病「p」になった。
さてどうする・・・と言うことになった。
誰もつききりで介護するものはいない。
過去何度も「私は絶対離婚しない」と妻に言われ続けてきた。
そんな私が妻を「介護することになった。
とにかく今の所大した「介護」ではないが、下記のことに気を遣っている。
1ーとにかく妻を嫌いにならないように接する。これが一番問題だ。
これが進むと私は逃げるか、妻を施設に入れるしか無くなる。
2ー妻が機嫌が悪い時でも、たとえ嫌なことを言われても反論しない
3ー散歩に付き合う。毎日の運動を激励、励ます。歩く。
妻は私が聞かない限り病状のことはほとんど喋らない。
私もあえて聞かない。
少しずつだが歩けなくなってきている。毎日転ぶ、少しずつわるくなってゆくのは見るに耐えられない。
かって長い間夫婦関係があまりうまく行っていない連れ会いを一体どうやって献身的に介護すればいいのだろうか迷いが生じている。
今更「愛とか、
こよなく大切な人」なんて思えっこない。
そんな深い訳ありの二人に、これから先何が起ころうとしているのか考え込んでしまう。
「俺たちこれからどうなんるのだろう」と私は妻に言ってしまう。
「もう私はそんなこと一切考えないようにしているの、今更ジタバタしてもどうしょうもない。医者に通い、ディホーム、デイケアの人の言うことを聞きながらこれから先は天命に従って生きるしかない」そう言いながら耳の後ろをすこし掻いた。
「現代医学は進んでいる。難病でも頑張れば普通の人と同じに生きられる。20年以上生きている人が大半だとネットでは書かれている」
「頑張って生き抜くしかない」と...」妻の目がきらりと光った。
「20年と言うと俺は100歳君は85歳。そうなれば間違いなく私の方が先にあの世に行ってしまう」
「・・・・」
「自分はもう80歳。いつ死んでもおかしくない歳になった。最近何をやっても身体がきつい、物忘れがひどい。そろそろ痴呆の兆候が出てきているのかな。一体自分に介護が必要になったら誰が介護してくれるのか」
「・・・・」
「やはり俺は完全介護の老人ホームに戻ると思う」
暗い雰囲気の中言葉がつながらない。私はさっさと三階の書斎に閉じこもる。
結局はおたがいテンションの低い日はこうなってしまう。
「人生に良いことが一つも残っていなければ死ぬもの悪くない。人生は良いと思われるから生き続ける。」(シェリーケイガン)
最近この言葉が何か身体中に迫ってくる。
人間の罪は歳をとらない
15日に足立監督作品「逃走」が全国で封切られた。
よくお客入っている。この勝負は勝ち・・・とユロースペースの支配人は言ったそうだ、よかった〜。
 
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321  · 
「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その19」
シー静かに、今妻はディホームに行っていて私は春の木漏れ陽に身を委ね何かホットしている。
「俺はもう幕張の老人ホームに予約を入れてある。幕張なら新宿まで1時間で行ける。鴨川のホームはやはりあまりにも遠過ぎた。
この歳になって友達とも酒を飲みたい、映画も演劇も死ぬまでに絶対見ておきたいライブもたくさんある。
しかし鴨川には、いやこの房総半島には映画館や劇場など一つもないんだ。東京に行くには片道3時間はかかってしまう。」
昨年1月私は言い訳のように東京の世田谷の実家に帰って妻に説明した。
「あなたは自分は80歳で死ぬんだと言い切って、最後は完全介護のホームに入って一人死ぬつもりだと言っていたものね」
「ジタバタしようが死ぬときは死ぬ。今回もよくわかったことだが、やはり君とはうまくやれそうもないと思う」
「いや、私も少しは変わったかな、私が全力でアンタの面倒を、介護をするよ」
涙ぐんだ灰色の目がすこし笑っている。妻も歳をとった65歳。
「おっと・・・そんなことを今更言われても困る。俺たちは完全な離婚状態にあるんだ」
「私は絶対離婚はしないわ」
「もうそれはいい」と私は投げ捨てるように言った。
私は昨年の1月に実家に戻って数ヶ月滞在?した。しかしどうも妻の様子がおかしい。
自転車から何度も落ちる。転ぶ。階段から落ちる症状が頻発した。身体中あざだらけなのだ。それでも医者にかかろうとしない妻を説得した。
「とにかく病院に行って調べてもらおう」
「私は歯医者以外病院にほとんど行ったことがない」
私は妻を強引に引っ張り出し新宿の大学病院で診察を受けた。
「どうも「p」の症状のようだと診断された。
私は逃げようがなくなった。妻は難病「p」なのだそうだ。医者が言うにはレベルは2。
「医者にレベルだけは聞いて欲しくなかったよ」と妻はいう。
私が妻の介護をするしかなくなったと思った。
どこか苦笑してしまうが「話が違いすぎる」と痛切に思った。
そして1年が過ぎようとしている。
私はこれからどう生きようとするのだろう。
春の夜をほのかに照す街灯の灯。
考えよ、人生の旅人。
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326  · 

「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その20」
今日は難病の妻(65歳)の誕生日〜さてどうするヒラノさん・・・。
「芦花公園の高遠の桜が見たい。今や満開だと思う」と桜好きの妻は久しぶりの笑顔で言う。
「あのな〜芦花公園まで徒歩30分以上かかる。歩けるのか?」
「大丈夫....歩ける」
「また今日は1万歩以上歩くことになる。君には運動が必要だ。そうか頑張ろう」と私。
「ところで誕生日のお祝い何か欲しいものがあるか」
「いや何もいらない」
ロボット歩きの妻と腕を組みながら世田谷の郊外の住宅地を歩く。当然他人より遅い。
歩きながら私はやはり感じてしまう。何も語らず、静かだ。それでいいのだ。
この人の持っている絶望が私にひた隠しにしている絶望にはげしく繋がっている感じがした。
公園では春の花々が咲きそろう、今日は学校の卒業式らしい。何かわいわいした熱気を抱え込んでいる。我々はポツンと公園の歩道の縁石に座った。
桜の木の下で少年がサッカーボールを蹴っている。
暖かい静かな夕方の星を見ながら。突然乾いた風が吹いてきて、私はベランダで一人酒を飲む。
妻は部屋から出てこない。一人自分の誕生日をなぜか孤独な彼女。「悲しんでいるのだろうか?」声もかけられない私がいる。
今、私にできることはなにかを思った。妻を勇気づけるものは何か?長い別居生活があったので何も浮かばない。せめて何かお祝いをできないかと思った。
ふっと、彼女のテーブルに花を飾ろうと思った。結婚?して40数年こんなことをするのは初めてだ。
急いでコンビニに花を買いにゆく。
もう寝てしまっている妻に
「知代子さん、誕生日おめでとう。長生きしようね」と書いた。
 
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「シェアーハウスロフト構築について・・・そのー1」
難病の自分の奥さんの病状も鑑みて、このところ「さて、わたしゃこれから自分の最後をどう生きるか」という局面を考え続けている。
どうせ自分の介護が必要となればまた「完全介護付き老人ホーム」に入るしかないと思ったら愕然としてしまった。
「ちょっと待てよ、もう老人ホームには経験済み」だし、どうも乗れないと思っていて、それなら自分の家を改装して「シェアーハウス」を構築して面白い豊かな才能ある人を集めて、自分も仲間に入って楽しもうと突然思ってしまった。
まさに倉本聰の「安らぎの郷」を作ってみたいと思った。
きっとその空間から何かしらのムーブメントが起こせるかもしれないと思った。
そうなると頑張ってしまう平野さん。
「絶対面白い空間を作ろうと思う。もちろん中にバーもあるし、バーベキューできるベランダも2つも庭ある。できたらいいスピーカーを入れて音楽スペースも充実するつもりだ。ピアノも入れたいと思ったし、ただ誰とも触れ合わず、安いから、会社と家の往復、便利だからといった住人は拒否したい。
もちろん利益を目的としていないし、投資資金は回収できないことは覚悟している。だが毎月の赤字は困ると思った。
本来は「2〜3万」の家賃と思ったが、これでは固定資産税も払えないし、清掃や管理すらできないと思った。
とても私一人では運営できないので人を雇うことにした。
ということは毎月5万近くの家賃を取ることになると思う。
奥さんと私の部屋は最大限確保しての大改築を設計やさんと相談した。基本6〜7部屋ができるという。
「その案だと、だいたい2〜3千万はかかるだろう」と言われた。
「う〜ん、後期高齢者の平野悠の最後の大仕事、やるっきゃない」と決意した。
あははは・・・・。
 
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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その21」
黄昏の妻は二週間の検査入院に・・・。
順天堂病院は難病「p」の権威ある医者が揃っているという。
「どうも「p」では無いような気がする。もっと他の専門医に診てもらいましょう」ということで二週間の検査入院になった。
昨日の妻の報告は「50%」の確率で、まだどっちかわからないと医者は言ったそうだ。
「難病「p」でないといいね」と電話口で私はどこかほっとした気持ちで言う。
さてどうなってしまうのか?
でももっと複雑な病気かもしれないと思ったりする。
突然訪れた束の間の時間。妻の病気から解放されたと思える一週間が過ぎた。
夜飯を作りながら「やはり一人がいい」と思ってしまう。
一人でいる時の心地良さと、一方では心の寂しさが同居してる感じだ。
老いがもたらす、孤独感と肉体の衰弱。
本当は寂しがりなのに一人で音楽を聴きながら酒を飲む。毎晩。
刹那!「私は施設に行くのは嫌!」と妻はいう。
「俺だってもう80歳を過ぎた。長寿の老いの代償は死への覚悟だ。この歳で私はこれ以上更に過酷になってゆくだろう君の介護はできないと思う。きっとどこかで投げ出す(介護ホームに行ってもらう)のかもしれない。」と言って私は妻に迫った。
妻は悲しそうに口を閉じた。
「桜上水や下高井戸の日大の桜並木が見たい。私が退院するときにはもう桜は散ってしまっている・・・。」
なんとも酷いことを言ったものだと反省した。
でも私には「夢ができた。自分はシェアーハウスを構築してその住人と共に身を委ねて生きてみようと思っている」と・・・。
老いに挑む。新しい生きがい、生活の活性化、同年代の他人の死を踏まえて、俺はまだこうして生きているという励みになるのだと思ったりする。。
 
 
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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その22」
「まだ20年は生き抜くよ!」と妻・・・・。
確かに難病「p」の平均寿命は普通の人に比べて2〜3年早いが若い人は20年は充分生きられる」とネットで書いてあった。
妻は65歳。まだまだ頑張って生き抜くらしい。
「おっと、そうなると私は100歳を超えてしまう。なんとも私の方が早く死んでしまうに違いない」と思ったりする。
医者を変え、順天堂病院にて検査入院を経て新しい薬を飲み始めてから難病「p」の妻はそこそこ調子がいいようだ。(多分)
もちろん家の中でも私の前でもよく転ぶ、その度に
「おっと!頭は打っていないよね」と心配になるが
以前のように階段から大胆に落ちるとかはなくなっていそうだ。
彼女は自分の状態をほとんど私に報告しない。ただ一人耐えているのだろうか?
転んで体のあちこちは痛いに違いないが愚痴の一つもない。泣き叫ぶこともない。頑固で丈夫な女なんだろう。
「難病「p」は転ぶのは仕方がない」と医者は言ったそうだ。
今のところ痴呆もなく風呂や掃除はケアーがきてくれるし週一回のディホームに通い、それほど性格的に荒れることもない。私にとってはそれほどの重圧はない。
「あくまでも現在はだ!」
とにかく彼女は車椅子になるのは困るとばかり、杖さえも拒否する。
妻は一日5000千歩以上歩かねば、車椅子生活になる、足を鍛えるため散歩に連れてゆけと私に訴える。
毎週3~4回は郊外の散歩に付き合わされる。ロボット歩きの妻は最初の5〜6分ぐらいは頑張って一人で歩くが、その後は私と腕を組んで歩く。
「なんて仲のいい夫婦なんだろう」と思われているのだろうと思う。
そして散歩の途中で仲良く外食をする。
大抵私はビールも注文する。そうすると妻も欲しがる。
「だめ、あんたはいつも酒を飲むと大きく転ぶ」というが
私のビールを平気で横取りする。
「帰りはタクシーにした方がいいよね」
「俺はね、このまま君の症状が進んでいって、どこまで出来るかわからんが、きつい介護になるのは覚悟はしているが でもさ、俺はそれだけで死んでゆくわけにはいかない。俺にも生きてゆく希望ができてきた。これまでは結構死ぬ(自殺)することばかり考えてきたが、君と共に生き抜く覚悟はできてきたんだよ」
「あなたのイメージするシェアーハウス」のことね。
「そうさ、君の新しい部屋も含めて設計図を見るかい」
「見ない」
「そうか、所詮共有できないか?君とはまったく価値観が違うしな〜だから今の俺たちがある」
沈黙のうちの風の中。
そして雨が愛撫のように降っている。
犬が近くで吠えた。
私は孤独な心で夜更かしをする。
雨はささやきながら昔話を思い起こさせる。
君はもう眠るが良い。雨はそこにいる。
街の明かりが光り始め、線路の先のどこまでも遠くに光っている。
すみ慣れた街。
なんとなく寂しくて懐かしく心に入り込んでゆく。
ふと目を瞑って押し寄せてくるあの悲しみはどこからくるのか、
重いいメランコリーの底に沈んでゆく。身動きのできないしびれは。
 
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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その23」
「暗い妻。どこまで続く”ぬかるみ”ぞ~・・・たまには優しい笑顔が欲しい」
相変わらず「私はこの妻の難病「p」の介護はどこまでやれるんだろう」と迷い続けているようだ。
これから先、最悪多分歩けなくなって車椅子生活になって痴呆や、寝たきり生活になって、下の世話まですることになるんだろうかと言った漠然とした不安が頭から離れようとしない。今のところはそこまで行っていないが、早急にバリアフリーにリホームしなければと思う。
多分妻は、うつ病や 将来への不安や身体機能の低下に対する悲しみなどから、気分が落ち込んだり、不安感が強くなっているのかも知れない。
一人で悲しい顔をして苦しんでいるのがよく見えたりする。
さらには • アパシー(無気力): 何事にも興味や関心が持てなくなっているのかも知れない。
妻が情緒不安定になると私はその場から逃げてしまう。
なんと言っても結婚してから離婚問題があって多くは別居していたので、まさか高級老人ホームで生活していたこの私が実家に戻って妻の介護をする羽目になるとは思いもしなかったわけだ。
基本丸一日家を空けられない。これは辛い。
難病「p」は決して人生の終わりではない。病気と向き合い、自分らしく生きることは可能なんだ」と私は妻に言う。
「あのな~君は自分の病状を(進み具合)をほとんど誰にも言わない。笑顔もなく、明るく自分からほとんど喋ろうとしない。顔の表情もどんどん悪くなってゆくし、いつだって重荷を背負って苦しんでいるような感じしか受けない。」
「大丈夫、そんなことないよ」
「まっ、価値観が違いすぎる俺たちは。君はいつ私が聞いても”大丈夫”と言う。ダメだよ、残りの人生最大限に楽しまなければ、心を向けるべきは自分であり、家族であり、友人たちである。どれだけ君にはコミュニケーションが必要だかわかっていないのではないが、孤立してはダメだよ」
「期待は必ず失望へと変わる。そして重なった失望はやがて絶望に至る。僕はもう、何の期待もしていない。だって期待は必ず失望へと変わる。そして重なった失望はやがて絶望に至る。ならば今のうちに、しっかりと絶望しておいたほうが、悲嘆や衝撃は軽減できる。ネガティブなことばかりを書いていい気になっている悲観論者に、「予測を間違えました」と言わせてほしい。この国を長く支えてきた憲法を守りたいのなら、集団の圧力とは別な選択をしてほしい。(森達也)
写真、1年前の鴨川老人ホーム、部屋からの景色。非難轟轟のトンビに餌付けをした。(笑)
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「風雲平野悠80歳 奮闘 介護録~その24」
・・・なんと難病「p」の妻は今度は駅の階段から落ち救急車で病院に。(泣)
連休の最中、朝10時、突然私の携帯がなった。
「救急隊のものです。今奥様は烏山駅の階段から落ちて、奥様を緊急搬送しています。行先は関東中央病院です。これからきてくださいますか」
「えぇ~またやったか。」と思った。
今年に入って2回目の救急車。過去顔面を三回打っていて、何針も縫うのは3回目だ。
今年に入って彼女は何回転んだろうか?
ロボット歩きで歩く、猫にも転ぶ、つまずく、転ぶと手で支えることができないから頭から転ぶ。血だらけになる。彼女の体はあざだらけだ。
どれでだけ痛いのだろうか 痛い一つ言わない。がマンしている。
検査の結果、幸いまたしても基本脳には異常がないそうだ。でもまたもやすごい傷だ。tーシャツは血だらけだ。
「なんでまた烏山なんぞに行ったのか?」
「信頼できる歯医者がある」
「何度言ったらわかるんだ、俺なしでは歩けないだろう。なぜそんな無茶をする。俺が車で送ると言っただろうが」
「ディホームで歩行訓練しているし、週3~4日相当お父さんの手伝いで1万歩近く歩いているから自信があった」
「杖は使わない、歩行器も嫌だという。なぜだ」
「医者が自分の足で歩かないとすぐ車椅子生活になると言ったので私はまだ頑張る。車椅子生活は考えられない」
来週ケアマネと介護認定士や区役所の連中が来て彼女の介護認定が1~2に変わるかも知れない。
その時に相談しよう。
先日やはり車椅子3年のりえちゃん達と私のための介護のレクチャー含めて飲み会があった。
土砂降りにの中のこの街は私が初めてライブハウスを開いた場所だ。懐かしい西荻窪の街。なんともサブカルっぽい。
私はね、2年リハビリで頑張って、急性期~回復期~生活期になるまで頑張ったよ。介護二から今は介護認定がなくなったわ」と車椅子のりえちゃん。
「リハビリを毎週何回もやらねばダメよ。作業療法士、を受けなさい。それには介護保険の再認定があって主治医から意見書を(紹介状)をもらって、難病「p」の専門のリハビリ施設があるところに行きなさい。」
もう週一のディホームではよくならない。
一番充実しているのは慶應病院だからそこに紹介状書いてもらったら」とちえちゃんは熱心に言ってくれる。
病院のコヒーショップでトーストを食べながら彼女は目を伏せ押し黙っている。
厚い包帯を巻いた頭。彼女は階段から落ちた状況も話そうとしない。
食事しているいる間中、私は悲しみに覆われてくる。沈黙は続く。
とろりとした眠気が漂っている店内だった。
妻は65歳、まだ若すぎる、私は涙がこぼれ落ちそうになった。
相変わらず「私はこの妻の難病「p」の介護はどこまでやれるんだろう」と迷い続けているようだ。
80歳になっても不徳のいたり。大病院、重症者の看護病棟はいつも私を悲しくさせる。
みんなゆっくりと階段を上る。私は一番後ろ。
「考えよ人生の旅人。永劫の旅人は帰らず」
ふとそんな言葉が浮かんできた。
「もう人生が終わりに近づいているというのに、今、俺はここで何をやっているんんだ!」 と自問自答したりする。
これも運命と諦めるのか?
寂しさがこの中に詰まっている
寂しい夏を迎えそうだ。春の終わりに木工花の匂いを嗅いだ。
 

平野悠の奮闘介護録第一部(No1~17)

ロック文化を広めた伝説の人物。平野悠の奮闘介護録

 

平野悠さんは、1970年にライブハウス「ロフト」を立ち上げて、都内各所にライブハウスを経営、ロック文化を広めた伝説の人物。家庭と奥さんをかえりみず、仕事と遊びではピカイチの人生を送ってきた。その平野さんの16歳年下の奥さんが、突然、パーキンソン病に。80歳の平野さんが戸惑いながら介護に奮闘する日記。別の媒体に書いているものを、本人の許可を得て転載する。

2024年11月21日
▼「なんの因果か?どうする・・・平野悠、80歳」
う~う、長く別居していた妻が大きな病魔に襲われ始めた。
助けるのは私一人。
私は自信はないが介護一徹に甘んじることにした。外出もままならない。
これから病状が進んで行ったらと思うと落ち込んでしまう。
何とも複雑だな。最後は運命から復讐されている感じだ。でも頑張る。
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘介護録ーその1」
「なんと三十数年ぶりに、妻と腕を組んで新宿を歩いた!」
・・・と言うのも、妻の病気の症状が、もう街中では一人で歩けないようになっていたのだ。
う〜う、何とも複雑。妻と腕を組むなんて、新鮮だったな。私らは30数年の間(別居生活を含む)触った事もない夫婦関係だったんだな。
でもね、今一番しんどくってめげているのは彼女だと思う。彼女の病気「P」は死ぬ病気ではないそうだ。でも表情は暗い。事態は進行する。
何とかフォローしたいと思っている。
朝トーストを食べながら妻は目を伏せ押し黙っている。
それだけでも私は悲しみに覆われてくる。
前回の記事で多くの人から激励のメッセージをいただいた。ありがとう。
一人介護は家庭崩壊を招くんだとか?一人で介護は無理です。と言う意見が多かった。
無駄なことをする時間はない、心を向けるべきは彼女であり、どこかこの状態は私が追い込んだと自責の念に駆られてる。
「俺はこの妻である女ひとりすら幸せにできなかったのだ!」
もちろん世田谷区の「安心健やかセンター」のケアマネージーの訪問もうけて介護保険等これからの介護方針を決めることになりそうだ。
介護用品の数々、何とこれが世田谷区のフォローで10分の1で購入できる。世田谷区の介護環境はとてもいいそうだ。世田谷に住んでいてよかったと言えそうだ。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその2」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜
なんとも青天の霹靂だ。妻が「P」の病気になった。
実家に戻り、私が妻の介護役を引き受けるしかなかった。これも宿命か。
相変わらず、こんな病気になったのも、結婚して30数年私は碌なことを彼女にしてこなかったと思った。浮気、家出、別居、長期の海外。
「これは私の責任に違いない。」と思ってしまう。だからこの状況からは逃げられそうもない。
しかしその根底には楽観的に何かとても大変なことを見逃しているような気になっていて、新しい環境を作ろうと模索し続けるしかないのかも。
そう、妻はとてもいい人なんだなと、こんなとき初めて実感する。
私らはいつまでいきつづけられるのだろうか?
「来週の今日もう一度来ますそれまでに考えてください」とケアマネージャーは言った。
「考えるって何を」
今私は彼女を介護しつつ、一日中一緒にいても煩わしくない安らぎの存在を求めているのだ。
今ほど自分の人生から距離を置いたことはないだろう。私ももう80歳を過ぎた。彼女は10歳以上まだ若い
「どこまで私はめげないで彼女に優しく接することができるのだろうか」
私は今ちょっと辛いが濃密に生きていることを感じる。今の妻はとても素直だ。
また今日も転んで大きなアザを作り、ろれつも確かではない。症状は確実に進行している。もう自転車も三輪車(あえて買った)にも乗れない。
かっての私はいつだって家に帰りたくないと思っていたし、何度も離婚をお願いしてきた、喧嘩が絶えない生活だったのに。しかし離婚は成立しなかった。
写真、妻を連れ出し「純烈、武道館」を見にゆく。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその3」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜
「最近ストレスが溜まって落ち込んでいるんだ。鬱かな、まいったな」私は友にさらけ出す。
「なんだ、介護で疲れたって?」
「あんたは10年近くお袋さんを介護していたよな、すごいな、その極意とは?」
「何を言っているんだ。まだお前は奥さんが「p」になって数ヶ月、情けない事を言うなよ。これから何年にもわたって介護っていうやつが始まるんだよ」
「これから先のことを考えると落ち込む一方さ。先日階段から落ちて、頭にすごい傷覆って救急車で病院に行ったんだ。なんか彼女が可哀想で思わず泣きながら抱きしめたんだ。こんなの初めてだ」
「俺は結構介護は楽しんでいたよ。それなりないいケアマネージャに出会えるといいんだけど」
「ふ〜ん、そんなもんかね」
私の50年来の親友との会話だ。
土曜日、天気もいい。
「どう、荒川を見に行きませんか、少し運動は必要だ。多分紅葉も綺麗だし」、
・・・どこまでも秋晴れな荒川土手を高島平まで歩く。
心の割れ目に秋の日の悲しさはある。
日が落ちればもう肌に冷たい風。
今日の私は彼女と共に静かな川べりに座る。
妻と歩くには私と腕を組むしかない。そうでないとすぐ転んでしまう。
知らない人が見ればなんて仲のいい夫婦なんだろうと思うに違いないと思ったりする。
歩きながら、ふと、「俺は自称作家の端くれだ。この自分に起こる出来事を淡々と描き続けるしかない。妻は迷惑だろうが」と思った。
長寿の老いはその代償を求める。それは決して逆らえない。
人生は急いで歩いているつもりでも自分の横を急行列車のように通り過ぎてゆく。(石原慎太郎)
ふむ、11月に読んだ、あるいは読み続けている本。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその4」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜快活になって行く妻?
「体調はいかがですか?」と東京医大の脳神経外科の医者は静かに尋ねた。
「はい、よくなっていません。まだよく部屋の中でも転びます」と妻は答える。
「そうですか、部屋の中とかはケアマネージャーと相談して安全を保ってください。ドーパミン剤を少しふやしてみましょう」
「これから先どうなってゆくのでしょうか」と私の不安に医者は答えようがなかったと思った。
「まあ、死ぬという病気では無いので今はいい薬がたくさん出ています。ゆっくりと症状を遅らせましょう」と淡々と答えた。
そんな医者の言葉を引き取って私は妻と腕を組みながら新宿の街を横断する。
遅い昼下がり、キラキラひかる高層ビルのコンクリートジャングルの間で
「後20年は生きるよ」と妻は快活にいう。
「20年とすると俺は100歳、そうなれば君の方が間違いなく生き抜くよ」
「いつか、歩けなくなる覚悟は出来ているわ。そうなるとなんか欲が出てきたな。痴呆や寝たきりになる前に色々感じたりみなくては、倉本聰脚本の映画「海の掟」をこれから見にゆかない」
「おっと、やっと頑張って生き抜いてゆく覚悟は出来たのか。それは嬉しい。
雑踏の歌舞伎町の狭い空を見上げ摩天楼に差し込む雲にましてや夕焼けに涙しないと心に誓った。そこには奥深い見えない憂鬱があった。それは孤独で侘しいく見えるのだった。
ソクラテスは「ただ生きることではなくよく生きること」「よく生きるためには何をすべきか」は哲学にとって根本問題で主流。「人生が生きるのあたいするか否かを判断する。」
 
<続く> 
 
 

 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその5」
〜悲しい静寂、妻の深い苦悩〜
妻の病気「p」が発症して3ヶ月余り、淡々と介護する毎日。
もう妻一人で外にも出られない。
自転車も三輪車も乗るのはむりだ。となると私が腕を組んで外を散歩をするしかない。買い物しかりだ。
私たちはほとんど口を聞かない。彼女も一切私に愚痴や弱音を吐かない。
一人淡々と空を見上げる妻の悲しさに話しかけられないでいる。どこまで苦しんでいるのだろうか?
彼女大変だと思う。
辛い、しんどいと思うがその一役も担えない私。どこか自分の来るべき将来が見えているような妻の涙を見た。
私は無言でほとんど書斎に籠る。
でも彼女は「炊事も洗濯も断固する。そうでないと私は何のために生きているかわからない。」という。
「来年沖縄のライブハウスから出演を呼ばれているんだけど、一緒できるかな」
「いや、もうそれは無理だと思う」と悲しそうにいう。
医者にも通い、ケアマネに参加してもらい、運動とリハビリのため「デイホーム」に通う妻。
「ディホームに参加して自分が一番若かった」とポツリと寂しそうに言う。そう彼女はまだ60代。
色々薬は飲んでいるようだがどうも改善されている様子は見えず、相変わらず部屋の中でも転んでいる。
夜中階下で大きな物音がすると飛び起きてしまう。
「また階段から落ちたか!」と・・・。
こんな生活がいつまで続くのだろうか?
日も暮れ、鐘がなり、月日は流れ私は一人残る。これからもず〜と一人か。
私はこの静寂な書斎でただ一人、木の葉が地に落ちるのを眺めている。夜のベランダにでて冬の風に吹かれながら椅子に座って足を投げ出し一杯のコップ酒を飲む。満月、秋ふかし・・・。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその6」
〜いやはや、80歳の老人が16歳年下(64歳)の妻を介護する 〜
「おっと!、ちょっと違うんでないの、私が近い将来介護されるはずだったのだが、丸切りあべこべになってしまったな。」
それがもう半年になる。
彼女の病気「P」は結構進行している。毎日のように驚きがある。
週1回、ディホーム、部屋の掃除、入浴の人等が来てくれる。(介護保険)
もう、一人ではなかなか外に歩けない。
自転車にも乗れない。買い物も行けない。
相変わらず部屋の中でも転ぶ。
私は毎日のように彼女を連れ出し近郊を散歩する。足を鍛える為だ。
もちろん私と腕をくまなければ転んでしまう。スパーの中でも腕を組む。
でもこれってまだ介護は初期の段階だと思う。
「とにかく洗濯と炊事はする。これは自分のリハビリにもなっているから」と言って彼女は頑張っている。頭はクリヤーだ。
朝起きると彼女がまた(3回目)血だらけになっている。
「また階段から落ちたか?なぜ俺に言わない」
「そうするとまた救急車呼ばれそうだから黙っていた」
「とにかく整形病院に行こう、脳波も心配だし」
「行かない、今はみんな休みだし」
「いや探せばあると思う」
こんな調子なのだ。
喜怒哀楽も結構激しくなっている。いい時は素敵な女なのだが。
時をり彼女の部屋から一人泣くが聞こえたりする。
彼女のしんどさに私は戦慄してしまう。
もう「かわいそうに・・どうやったら私がフォロー出来るだろうかと」思ってしまう。
snsで彼女は今の自分の状態を調べてすっかり知っているようだ。自分のこれからの当て所もない行く末を。「p」は死に至る病気ではないという。しかし完治薬はないそうだ。
これからどうなってゆくのだろうか?私に介護はできるのだろうかと思ってしまう。
クリスマスのイブの夜、私は、彼女を労うためケーキを買った。夜中に紅茶でも一緒にと思ったが「いらない!食べたくない」と言う。
これだけ私は激励したり彼女に気を遣って親切にしているのにと思って情けなくなる。これが介護かと思う瞬間でもある。
人間の存在...若さや美しさや愛や情念や富や地位や世間的能力などが十分あったとしても、後に残る骨組みは万人共通の、老、病、死があるばかりなのだ。
大晦日、私たちは恒例の、明大前の茶そば屋にゆく。片道30分は歩く。
なぜこんなに寂しいんだろう。24年大晦日。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその7」
〜絶望的な正月を過ごす〜妻の「p」と共に生きる。〜新年の誓い。
今年に入って彼女は何回転んだだろう。それも家の中でだ。階段や風呂に手すりもつけた。しかし椅子から立とうとするところがる。歩いてつまずく。ベットから落ちる。
階段から落ちて眉の傷を10針も縫ったり、頭部を打ったりして救急車で病院に行ったりする。転んだ時手をつけないので顔から落ちる。
もう彼女の体はあざだらけだ。
正月2日、彼女はどうしても初詣に行きたいと言う。
「どうしても行くか?確かに少し歩いたほうがいいかも、自分が腕を組むから大丈夫だと思う。あとはタクシーを使えばいいさ」
「ありがとう。なぜどうしても初詣に行きたいと思ったかわからないけど、お願いはこれから先の事なの・・・」
「意味深だな」
晴天の深大寺で初詣、閑散とした神代植物公園で大きなハスを見る。
深大寺そばを食べたかったがあまりにもの行列で諦めた。
もう4年も前のこと、私は愛する鈴木邦男さんを思い出す。ある日鈴木さんが顔中血だらけになって私の店の前に現れた。
「一体どうしたんですか。歌舞伎町のヤクザと喧嘩でもしたんですか」
「いやそこの角で転んだ」と言う。
それから鈴木さんの闘病生活が始まった。
私の30数年に渡る「妻との家庭生活は地獄に近かった。絶望的で・・・離婚も成立しそうもない。」だから私は77歳の時、とても彼女に自分の介護は任せられない、お尻を拭いてもらいたくないと思って一人彼女をおいて完全介護付きの自立型老人ホームにはいった。
それが・・・逆転した。
私は彼女と不安なままに新年の静かな夕闇に座る。
正月がどこか慌ただしくすぎてゆく。
31日、息子がご機嫌伺いにやってくる。
3人で明大前の茶蕎麦屋に年越しそばを食べにゆき、妻は息子と腕を組み
鋪道を歩く、なんとも幸せそうな笑顔が見えた。
妻はそれはとてつもなく辛い日々を過ごしていると言えそうだ。
静かな深夜、そこには見えない憂鬱があった。
物事が悪い方向に流れてゆくのを止めようがなく私はこのことに翻弄され続けていたようだ。
でも出来る限りのことはする。逃げない、これが私の新年の誓いだ。
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその8」
〜進行はするが後戻りはしない病気「p」に絶望感を感じる。
わたしは今、30数年間の結婚の中で一番妻に涙が出るほど感動している。
それがすごいんだ。
全く弱音を吐かない、愚痴もない、身体中痛いのに痛いと言わない。投げやりにならない。いいと言うのに私の食事は作るし、洗濯もする。
洗濯物を畳むことができない。字がまともに書けない、、また皿や花瓶を割った」というが動くのはやめない。
そして私はどうもうまくいっていないなと思いながら「p」が彼女を蝕んでゆくのを、ハラハラしなががら見守っている。
「止まれ〜!悪魔の病気!」と叫んでしまう。
「どう奥さんの状態は・・・」
「いや〜それがすごいんだ。毎日のように転んであざを作っている。精神的にも弱っているし便秘とか眠れないとかの症状も凄そうだ」
「どんどん病状進行している?」
「今年の正月は結構ひどくって、この人もう入院するしかないんじゃないかと思うくらい衰弱している。死んでしまうかもとも」
「転んでも、転んでも立ち上がり立ち働いている。」
私の知らない間に、買い物や病院まで一人で行く。三輪車にも何回転んでも乗ろうとする。
「これからどうなるの」
「来週ケアマネが来るので相談してしょうかと思っている。多分このままではまずいだろうと思ったりする」
今 正直に怯えている。
「そっか。もう春の花々が咲きそろう季節なんだ……。
 わたしは、ポカポカした陽だまりのなか、窓から見下ろし春が来るのを待っている。
クリフォードブラン・森田童子を聞きながら、しみじみと過去何十年も別居状態だった最悪の自分たちの結婚生活を鑑みる。
「すまない!Cさん(妻)。私が至らない(不良)ばかりにこんなことになってしまったと・・・」
 
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその9」(20250109)
〜どこまで書けるのか妻の「P」の病気〜
う〜ん、ちょっと恐れたコメントがあって、昨夜より若干凹んでいる。
「妻の病状を曝け出して書いて面白いのか」
「いや、実のところずいぶん迷いながら書いているんだ。」
「書きすぎではないのか」
「私も下手くそながら文章で表現する作家の端くれだと思っている。リアリティのある文章を緊張感を持って書きたいと思っている。」
「どこまで、いつまで書くのか」
「今、自分は80歳になり、いつ死んでもおかしくない状態にあると思う。失礼だが妻が、自分がこれからどうなってゆくのかに興味はある。こんな不器用な自分がどこまで介護が出来るのかと言うことかな」
「奥さんの気持ちを考えたことあるのか」
「自分たち夫婦は長いこと別居したり生活はうまくいっていなかった。そのことの反省の意味もある介護なんだ」
「奥さんはこのこと知っているのか」
「幸い彼女はネットをやらない。自分は精一杯介護はやっている。このプログは多くの人から賛同を得ている。ある介護雑誌からここのブログ転載しても良いかと言うのも来ているんだ。」
「それから・・・」
「こんな状況の中だから、自分には新しいアイデアがどんどん生まれている。どうやって老後から死に至るまで生きるかの道筋ができてきたと思うんだ。」
「どんなアイデア」
「いずれ話す」
目の前の八幡神社の木々間から光っては揺れその風には春の匂いが満ちている。
寒い!一月の風はまだまだ冷たい。私は歩きながら少しでもその風を遮ろうとダウンの襟元を手で押えた。
どうあがいたところで、当面の寒さからは逃れられないことを悟っただけだった。
春はまだ遠い。
 
▼その10 略
 
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその11」(20250119)
〜冬の星空が見たいと妻が言い出した〜
「そうか、冬の星空か?家のベランダからでは街の明かりは強いし、寒いので外の夜空は無理だろう。分倍河原の郷土の森のプラネタリュウムにでも行くか」
「あそこは今、冬の花、ロウバイが満開だそう。見たい」
「歩けるのかな」
「なんとか、腕を持って貰えば歩くのは可能だと思う」と妻は明るく答える。
今真っ盛りのロウバイ、蕾が膨らんでいるたくさんの梅の木、プラネタリュウムで満天の星空を満喫。
「星空がなぜ見たくなったの?」
「冬の星空がきれいに感じるのは、星がまたたいて見えるという理由もあるよ。自分の涙に混じってまたたいて見えるっていいでしょ。どうしても今見たくなったの」
「自分の涙と星の瞬きを感じたいと・・・冷たい空気のせいだろう。贅沢な女だ」
この二週間あまり、あれほどよく転んでいた妻から多分(私に言わないだけか)大きな転びはなさそうだった。相変わらずコップとか皿は落として割ったり、椅子から一人で立ち上がれないこともあるが。
しかし、妻は断固「炊事と洗濯は自分でする」と言い切るのだ。
病気「p」の場合、転ぶということは、手がつけないので頭から落ちるしかないのだ。それは怖い。階段の手すりがあっても自分の手で支えきれず落ちたりするのだ。
「p」はそれほど多く転ぶ病気ではない」と担当医師が言っていたが、どうなんだろう。このままそれとなく平穏に生活できるのだろうか?事態は進行するのか。わからない。
何か今、日本で一番「p」の治療で優れているのは順天堂医大なんだそうだ。
私は今の主治医にそれほど不満があるわけではないが、友達の精神科医に順天堂病院の紹介状を書いてもらうことにした。
老いる~若い頃80歳といえば老人を通り越して仙人のような感じがした。まさか自分がその歳まで生きようとは思いもしなかった。
そんなことを考えているとコーヒーマシーンがふっと湯気を立てているのが見えた。その瞬間あたりの景色が歪んで見えた。静かにめくるめく青春シーンが浮かんでは消えてゆく。
時間は過去に遡っているのだ。私は書斎で静かに目を閉じた。誰もいない空間になった。思い浮かぶのは取り返しのつかない失敗ばかり。悪夢だ。過去に戻っているのが間違いであればいいとさえ思った。
 
 
<続く> 

 
 
▼20250208「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその14」
決断〜自宅をリホームしてサブカル「シェアハウス・ロフト」を作る。
妻の病気「p」の介護はとても長期戦になりそうだ。まだ序章なような気がする。
今は安定してそれほどの大きな転びもなく、喋る言葉にもハリが出てきている。
自転車などに乗れないが、なんとか彼女はロボット歩きで頑張って生活している。
勿論、散歩や買い物、病院等に行くときは私が付き添う。
これからどんどん進行して行くだろう病状を見守るしかないのかな。
安定してくるととても嫌な女になる。これも妻の精神的安定のため我慢している。
どんどん妻が嫌いになるのが怖い。
そんなあれやこれやで私は色々考える。
このままわたしゃ介護に明け暮れて、どっちが先に逝ってしまうかになるのかと思うと、もし自分一人が取り残されたらどうするのかを考えた。
子供は当てにできない。
そんなとき思いついたのが、「シェアハウス経営」だ。
自分も最大限楽しめる、出会いもある、若い連中からレクチャーを受けたいし、数々の面白い事件も起こりそうだ。
面白そうな奴らが何人か揃えばきっと何かのシーンが起こせるかもしれない。
徒党を組んでデモに行ったりして。(笑)youtubや新聞を発行したりして。
もちろん赤字覚悟で、シェアハウス経営を商売にするつもりはない。リホームには相当な費用がかかりそうだが、ただ死ぬまでに自分の使いきれない財産を使い切りたいと思うのみだ。
家賃は2万ぐらい、電気、水道、管理費代等々、全て1ヶ月3万ぐらいを予定。
「多士済々」な面白い連中を集めたいと思っている。
その原点は、以前テレビで放映された、「やすらぎの郷」(倉本聰原作)的な知的なコミュニテイな空間を作りたいと思っている。
あの「郷」には作家、音楽家、スポーツ選手、俳優、コラムニストがいてとてもインテリジェンスがあって生きていて楽しそうだった。
そうなるとアイデアはたくさん出てくる。さてどんな人が応募してくるのか、人選は私の独断と偏見で決める。
まだ設計はできていないが6〜7人は入居できる予定だ。
オープンは今年12月を予定。
世田谷区桜上水
駅から10分。新宿まで7分。
 
▼20250225「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその15」
   頑張っているよな~難病「P」と戦う妻。
少しずつの病状の進み具合が心配で、まだよく転んだりする。字も書けなくなってきている。10分歩くとワタシと腕を組んで歩く。いつ車椅子が必要になるのか?時間の問題か
「もう、俺の食事や洗濯は自分でできるからやらなくてもいい。長いこと俺は一人でやってきたし。」
「いや、これはワタシの意地。せめて体が動くうちはやめない」と言い張る。
「考えてみれば俺たち40年近い結婚では半分以上一緒に住んでいなかった。なぜ君がいまもだけど離婚の申しいれを拒否している。それがわからん」
「私はこの家を出たらどこにも行くところがない。私はどっか人と離れて暮らしている。人と話すのが億劫なの。」
「そんなの、裁判で俺からがっぽり慰謝料を取ってマンションを買えばいいに。この家は俺の名義だし」
「65歳過ぎたワタシ、働く場所もない。どこかに勤めようと面接も受けたけど皆落ちた。一人生活も良かったけど、やはりあんたが時折帰ってくるのが楽しみだった。これでも私は生活を大事にしている」
「おっと!父帰る?」か
「えっつ、まさか、君は俺がやること全てに興味がなかったというか無視し続けた。最後の2年間の別居(老人ホーム)でワタシがどこにゆくか聞こうともしなかった。俺はそこで死ぬはずだったに。君はほとんど活動しなかった。家に篭りっきりだった。それが今回の病気につながっているとなると責任は自分にあるのかな?」
久しぶり妻と会話した。
いつもは妻とはほとんど喋らず、彼女もワタシに病気の報告はしない。
頑固なのだ。
この1年余りワタシはなんか生きるのがめんどくさくなってきて、いつも死ぬことを考えてきた。
このまま「介護?」に明け暮れて自分も歳をとってゆく。あと5年か?」なんて思ったりする。あと5年生きていて何か面白いことがあるわけない」なんと思ったりする。
そんな奴が長生きして何になる。魂も心もない。
そんな時この家でシェアーハウスをやってみたいと思った。
その場は他人が寄り添って協力し合って生きてゆく空間の創造だ。
先週設計屋と打ち合わせをした。
「シェアハウス・サブカルロフト」と命名。
….やっとあと数年は生きる希望が出てきたワタシ・・・
来年3月完成予定。協力してくれる人を探そう。
私は賑やかな街を歩く。さまざまな女や子供が脇を通り過ぎてゆく
一筋太陽の光線がさっと落ち、強い北風がどこから飛んでくる。
光線が光りの中を行ったり来たり、
目の前のベランダは豊かな緑の絵を描く。
沈黙とは孤独を咲かす花だ。
空間は遡ることができるが時間は遡ることができない。
10年ぶりに沖縄に行った。
沖縄のライブハウスから吉田豪さんと共に、出演依頼を受け梅造さんと大塚音楽部長と参加した。
とても 旅行気分になれずに空に向かって言葉もなく立ち会う人もいなかった。空に向かって手を挙げさようなら。太陽も海も。信ずるに値しない。
 
▼20250305「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその16」
検査入院二週間だと...
妻が難病「p」とわかってもう1年にもなる。
発病後10年で車椅子生活や寝たきりになると言われるが、まだ妻は65歳。これから長い
 
年月どうなるんだろうと思ったりする。多分私の方が先に死んでしまうのかもしれない。
どうも医者は「ひょっとするとこれは「p」ではないんではないか」と言う意見もあったそうだ。通常「p」はそれほど転ばないという。手首もしなやかだ。
医師は順天堂医大の「p」のチームに相談するという。そのための検査入院なんだそうだ。
基本妻の頭脳はそこそこ明晰だ。喋る言葉もそれほどの違和感はない。・・・でも、1日数回は転んでいるようだ。以前のように大怪我(階段から落ちるとか)は気をつけているようだが、席を立つ時はなかなか一人で立てない。そしてロボット歩き。
「海が見たい」と青天の冬空の中妻はいう。
「そうか、ここから一番近い海といえば江ノ島しかない。俺のいつもの海岸散歩コース、茅ヶ崎から江ノ島(徒歩2時間あまり)〜そして江ノ島名物「シラス定食」なんだけど、今の君は歩けないと思う。直接江ノ島に行ってシラスを食べるか?」
海の見える踏切。カンカンと鳴る軌道上を箱型電車が傾きながら過ぎてゆく。
広大な海の向こうの空は頭を抱えて途方に暮れているように見えた。
あれだけ海が好きな私の心は晴れない。
雪がちらつく中、御茶ノ水の病院まで同じ傘で腕組んで人混みの中歩く。これが意外と疲れる。なるべくタクシーは使わず歩くことを勧める。
電車に乗る。優先席は若いやつに占領されて、「すみません、妻が病気で、席をかわって下さい」といえないでいる。両手で手すりに捕まって体を支えて頑張っている妻を私は見ている。
おっと「介護者がなぜ大変なのかが第三者に理解しにくい。ということが、パーキンソン病の在宅生活上の最大の特徴といえます」なんてネットに出ている。
こういう記事を見ると、今のところそれほど大変でないのだが、これからのことに不安は募ってしまう。
このところ妻の笑顔や笑い声が見えない聞こえない。
「暗いな〜」と一人呟く。真夜中の時間が行ったり来たりする中どこまでも闇世だ。
私は3階に住み、妻は一階に住んでいる。妻と出会うのは二階の居間、食堂だ。
我々はあまり口を聞かない。
何度も言うが、彼女は決して愚痴や不満は言わない。でもいつも悲しそうな顔をしている。一人で部屋で悲しんでいるのが目に浮かぶが私は何もできないでいる。
頑固な女なのだ。機嫌の悪い時は私は無視して逃げるように3階に上がる。
私は絶望が足らないのか。夜は私を誘う。夜を旅する。
私を呼んだのは亡くなった母。
 
▼20250311「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその17」
・・・・足立監督作品「逃走」を見に連れてゆけと難病持ちの妻が言う。
「えっ、なんだって!これまで政治とか特に極左とか左翼とか全く興味を示さなかった君がどうして・・・。」
「爆弾犯の桐島聡が50年間警察から逃げ回って、最後は自分の名前で死にたいと言い切った彼の生き様には興味がある。この映画あんたが資金出したんでしょ」
「へ〜ぇ、知っているんだ。俺の命もあと大したことはない。80年間頑張って生きてきた、ちょっとだけ財産らしきものがあるけど、君が必要とする以外、こんなの残すと兄弟喧嘩とかになる。何にも残さないのが一番いい。全部使い切って死にたいんだよ。それが一番だと思う」
梅ヶ丘に終わりかけの梅の花を見にゆく。(徒歩片道30分)
短い早春の影はすっかり落ちて薄くなってゆく。
もう直ぐ大好きな春がやってくる。浅い春。ワルツのように、私の胸にす~っと入り込む。
頑張って私に支えられながら1万歩も歩く妻。
「すごいそ、頑張れ!」と声をかけ続ける。
<長年の親友との会話>
「お前な〜、介護介護って騒いでいるけど、どんな介護をしているんだ」と友がいう。
「そうだな、毎日のように野外散歩は連れ出している。カラオケとか外食もたくさんしている。ディケアとの相談とか、病院通とかも全部付き合っている。たくさん励ましている。妻には一切逆らわない。よく転んでいるから心配でハラハラしてみている」
「あははは、そんなの介護のうちには入らん。介護歴10年、の俺から言わせると、悲鳴を上げるのはこれからだよ」
「そうか、これからが正念場か、今はなんとかやれるけど、毎晩夜中に起こされたり、おしめを取り替えたり、うつ症状になったりするのは俺には無理だと思う。」
「これは辛いぞ、とくに難病「p」の場合は・・・」
「でも俺は今、ちょっとした生きがいを持っている」
「シェアーハウス構築のことか?」 」
「そうさ、妻の介護と共に、平野悠80歳と楽しく助け合ってくれる同居人を探すんだ」
「まっ、本当に面白いことを考えるよな。お前は。」
春になると改めて思う。ひばりがどこかで泣いている。それは春だなと改めて思う瞬間春の主役は梅から桜.
 
<続く>