平野悠の奮闘介護録
ロック文化を広めた伝説の人物。平野悠の奮闘介護録
2024年11月21日
▼「なんの因果か?どうする・・・平野悠、80歳」
う~う、長く別居していた妻が大きな病魔に襲われ始めた。
助けるのは私一人。
私は自信はないが介護一徹に甘んじることにした。外出もままならない。
これから病状が進んで行ったらと思うと落ち込んでしまう。
何とも複雑だな。最後は運命から復讐されている感じだ。でも頑張る。
▼「風雲平野悠80歳・奮闘介護録ーその1」
「なんと三十数年ぶりに、妻と腕を組んで新宿を歩いた!」
・・・と言うのも、妻の病気の症状が、もう街中では一人で歩けないようになっていたのだ。
う〜う、何とも複雑。妻と腕を組むなんて、新鮮だったな。私らは30数年の間(別居生活を含む)触った事もない夫婦関係だったんだな。
でもね、今一番しんどくってめげているのは彼女だと思う。彼女の病気「P」は死ぬ病気ではないそうだ。でも表情は暗い。事態は進行する。
何とかフォローしたいと思っている。
朝トーストを食べながら妻は目を伏せ押し黙っている。
それだけでも私は悲しみに覆われてくる。
前回の記事で多くの人から激励のメッセージをいただいた。ありがとう。
一人介護は家庭崩壊を招くんだとか?一人で介護は無理です。と言う意見が多かった。
無駄なことをする時間はない、心を向けるべきは彼女であり、どこかこの状態は私が追い込んだと自責の念に駆られてる。
「俺はこの妻である女ひとりすら幸せにできなかったのだ!」
もちろん世田谷区の「安心健やかセンター」のケアマネージーの訪問もうけて介護保険等これからの介護方針を決めることになりそうだ。
介護用品の数々、何とこれが世田谷区のフォローで10分の1で購入できる。世田谷区の介護環境はとてもいいそうだ。世田谷に住んでいてよかったと言えそうだ。
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその2」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜
なんとも青天の霹靂だ。妻が「P」の病気になった。
実家に戻り、私が妻の介護役を引き受けるしかなかった。これも宿命か。
相変わらず、こんな病気になったのも、結婚して30数年私は碌なことを彼女にしてこなかったと思った。浮気、家出、別居、長期の海外。
「これは私の責任に違いない。」と思ってしまう。だからこの状況からは逃げられそうもない。
しかしその根底には楽観的に何かとても大変なことを見逃しているような気になっていて、新しい環境を作ろうと模索し続けるしかないのかも。
そう、妻はとてもいい人なんだなと、こんなとき初めて実感する。
私らはいつまでいきつづけられるのだろうか?
「来週の今日もう一度来ますそれまでに考えてください」とケアマネージャーは言った。
「考えるって何を」
今私は彼女を介護しつつ、一日中一緒にいても煩わしくない安らぎの存在を求めているのだ。
今ほど自分の人生から距離を置いたことはないだろう。私ももう80歳を過ぎた。彼女は10歳以上まだ若い
「どこまで私はめげないで彼女に優しく接することができるのだろうか」
私は今ちょっと辛いが濃密に生きていることを感じる。今の妻はとても素直だ。
また今日も転んで大きなアザを作り、ろれつも確かではない。症状は確実に進行している。もう自転車も三輪車(あえて買った)にも乗れない。
かっての私はいつだって家に帰りたくないと思っていたし、何度も離婚をお願いしてきた、喧嘩が絶えない生活だったのに。しかし離婚は成立しなかった。
写真、妻を連れ出し「純烈、武道館」を見にゆく。
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその3」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜
「最近ストレスが溜まって落ち込んでいるんだ。鬱かな、まいったな」私は友にさらけ出す。
「なんだ、介護で疲れたって?」
「あんたは10年近くお袋さんを介護していたよな、すごいな、その極意とは?」
「何を言っているんだ。まだお前は奥さんが「p」になって数ヶ月、情けない事を言うなよ。これから何年にもわたって介護っていうやつが始まるんだよ」
「これから先のことを考えると落ち込む一方さ。先日階段から落ちて、頭にすごい傷覆って救急車で病院に行ったんだ。なんか彼女が可哀想で思わず泣きながら抱きしめたんだ。こんなの初めてだ」
「俺は結構介護は楽しんでいたよ。それなりないいケアマネージャに出会えるといいんだけど」
「ふ〜ん、そんなもんかね」
私の50年来の親友との会話だ。
土曜日、天気もいい。
「どう、荒川を見に行きませんか、少し運動は必要だ。多分紅葉も綺麗だし」、
・・・どこまでも秋晴れな荒川土手を高島平まで歩く。
心の割れ目に秋の日の悲しさはある。
日が落ちればもう肌に冷たい風。
今日の私は彼女と共に静かな川べりに座る。
妻と歩くには私と腕を組むしかない。そうでないとすぐ転んでしまう。
知らない人が見ればなんて仲のいい夫婦なんだろうと思うに違いないと思ったりする。
歩きながら、ふと、「俺は自称作家の端くれだ。この自分に起こる出来事を淡々と描き続けるしかない。妻は迷惑だろうが」と思った。
長寿の老いはその代償を求める。それは決して逆らえない。
人生は急いで歩いているつもりでも自分の横を急行列車のように通り過ぎてゆく。(石原慎太郎)
ふむ、11月に読んだ、あるいは読み続けている本。
▼「風雲平野悠80歳・奮闘 介護録ーその4」
〜老人ホーム脱出から介護へ〜快活になって行く妻?
「体調はいかがですか?」と東京医大の脳神経外科の医者は静かに尋ねた。
「はい、よくなっていません。まだよく部屋の中でも転びます」と妻は答える。
「そうですか、部屋の中とかはケアマネージャーと相談して安全を保ってください。ドーパミン剤を少しふやしてみましょう」
「これから先どうなってゆくのでしょうか」と私の不安に医者は答えようがなかったと思った。
「まあ、死ぬという病気では無いので今はいい薬がたくさん出ています。ゆっくりと症状を遅らせましょう」と淡々と答えた。
そんな医者の言葉を引き取って私は妻と腕を組みながら新宿の街を横断する。
遅い昼下がり、キラキラひかる高層ビルのコンクリートジャングルの間で
「後20年は生きるよ」と妻は快活にいう。
「20年とすると俺は100歳、そうなれば君の方が間違いなく生き抜くよ」
「いつか、歩けなくなる覚悟は出来ているわ。そうなるとなんか欲が出てきたな。痴呆や寝たきりになる前に色々感じたりみなくては、倉本聰脚本の映画「海の掟」をこれから見にゆかない」
「おっと、やっと頑張って生き抜いてゆく覚悟は出来たのか。それは嬉しい。
雑踏の歌舞伎町の狭い空を見上げ摩天楼に差し込む雲にましてや夕焼けに涙しないと心に誓った。そこには奥深い見えない憂鬱があった。それは孤独で侘しいく見えるのだった。
ソクラテスは「ただ生きることではなくよく生きること」「よく生きるためには何をすべきか」は哲学にとって根本問題で主流。「人生が生きるのあたいするか否かを判断する。」
<続く>